ジロ・デ・イタリア(Giro d'Italia)とは?-名車の証
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【イタリア人によるイタリア人のためのレース】
国際化に伴い、自国の選手が活躍できなくなってしまったツールと異なり、ジロはあくまでも「イタリア人によるイタリア人のためのレース」だ。
これまでの92回の大会の内、イタリア人が勝ったのは65回で、勝率は71%にも及ぶ。これは、ツールにおけるフランス人の勝率38%、ブエルタにおけるスペイン人の勝率45%に大きく水をあけている。
そんなジロであるから、コースの特徴やそこで繰り広げられた名勝負、機材の特殊性について理解することは、とりもなおさずイタリアの文化を理解するということにつながる。
そこで、ここではいくつかのテーマに的を絞ってジロに関する理解を深めてみたい。
【世界最大のレースと世界最高のレース】
ジロ・デ・イタリアの山岳ステージは厳しい。ツール・ド・フランスの山岳ステージと比較すると、平均斜度が大きい峠が多いのだ。さらに、道は狭く未舗装路さえしばしば現れる。おまけに5月という開催時期により、天候が荒れると雪になることもあるのだ。そのあまりの厳しさから、イタリア人はよくこう言う。
「ツールが世界最大のレースなら、ジロは世界最高のレースさ」と。
ジロを象徴する峠は数多い。ステルヴィオ峠、ポルドイ峠、モンテボンドーネ、ゾソコラン・・・。すべて挙げていったらきりがないほどだ。そこで、ここではガヴィア峠とモルティローロ峠を取り上げ、そこで繰り広げられた名勝負を振り返ってみたい。
88年のガヴィア峠は吹雪となった。現在ならコース短縮の措置が取られるところだが、当時は通信手段もプアで、吹雪の情報が審判に伝えられるのが遅れて選手たちは峠に突入してしまった。凍える手でブレーキもかけられず、転倒する選手が続出。
ここで独走して総合優勝を決めたのが、アメリカ人のアンデイ・ハンプステンだった。チームカーにたまたまあったワセリンを脚にたっぷりと塗り、寒さをしのいだのである。
94年にはエフゲニー・ベルズィンが当時の最強選手ミゲール・インドウラインとモルティローロ峠で一騎打ちを繰り広げ総合優勝を決めた。厳しい傾斜に打ち勝った者だけがジロの勝者になれるのである。
【時代とともに小さくなるインナーギヤ】
1950年代まで、チェーンホイールのインナーギヤは46Tや45Tが当たり前だった。今では平地のタイムトライアルでしか使わないようなビッグギヤで、当時の選手たちは山岳を走っていたのである。そこには「プロ選手たるもの、この程度のギヤを踏めなくてどうする」というメンタリテイがあったようだ。
しかし、60年代にカンパニョーロがレコードクランクをリリ―スすると、最初は44T、続いて42Tが装着できるようになり、選手の負担はかなり軽減された。
80年代になると、シマノニアュラエースが39Tを装着可能にして、プロ選手から大きな支持を集めることとなる。それを横目でみていたカンパニョーロも、85年発表のCレコードで39Tの装着を可能にした。
2000年代には逆に、カンパニョーロがシマノよりも先にインナー34Tのコンパクトドライブを投入し、難関ステージで重宝されるようになった。
【イタリアを二分した対照的なスター選手】
【コッピ VS バルタリ】
バルタリは1935年にプロ入りすると、翌36年には早くもジロで総合優勝した。
37年にはジロ連覇、38年にはツール優勝と破竹の進撃を続けたが、忍び寄る戦争の影は選手活動の継続をままならぬものとし、バルタリのキャリアはいったん途切れることとなる。
大戦中、バルタリはファシズムを嫌い、レジスタンス運動に荷担するとともにナチスドイツに迫害されていたユダヤ人の逃亡を助けていた。
コッピはバルタリより5歳年下だ。40年に19歳でジロ総合優勝という衝撃のデビューを飾ったものの、バルタリと同じく第二次世界大戦でキャリアの中断を余儀なくされてしまう。
戦後はまさに「コッピ・バルタリ時代」となった。バルタリが46年のジロを制すると、コッピは47、49、51、52年のジロに勝ち、通算5勝を記録する。
この時代にイタリアはコッピアーノ(コッピ派)とバルタリアーノ(バルタリ派)に二分され、両派の盛り上がりは社会現象となる。
戦争に負け荒廃したイタリアにあって、彼らの活躍は国民の希望そのものだったのだ。
コッピとバルタリは対照的だった。享楽的なコッピに対して禁欲的なバルトリ、都会的なコッピに対して、農村的なバルトリというイメージだったのだ。そのためか、都市部ではコッピアーノが、農村部ではバルタリアーノが多かった。
【サロンニ VS モゼール】
1977年、サロンニは19歳の若さでプロデビューした。そして79年のジロにおいて、モゼールから第8ステージでマリアローザを奪うと、最後までそれを守り通して初優勝を飾ったのである。83年にも同じように優勝する。一方、パリ~ルーベなどのワンデーレースで圧倒的な強さを誇るモゼールだったが、ステージレースはあまり得意としていなかった。厳しい山岳ステージで失速することが多かったからだ。もちろん、サロンニの存在も大きかった。意外なことに、モゼールがジロを制したのはフィニョンとの死闘を演じた84年だけだった。
【メルクス VS ジモンディ】
イタリアで最も自転車選手の多いベルガモ出身のジモンディは、65年にプロデビューするといきなリジロで3位となり、続くツールでは総合優勝する。しかし、当時は「カンニバル(人食い)」の異名を取る史上最強の選手、メルクスの全盛期だった。豊かな才能をもったジモンディだったが、その前にメルクスが立ちはだかり、多くの勝利を阻まれたのだった。ジモンディはジロに67、69、76年と3回勝っているが、もしメルクス(ジロは68、70、72、73、74年に勝利)がいなかったら、その数がさらに増えていたのは間違いない。
【ブーニョ VS キャプーチ】
メルクスの活躍の影でジモンディが多くの勝利を阻まれたように、あるいはアームストロングのためにウルリッヒが可度も涙を飲んだように、ブーニョとキャプーチは常にインドウラインに勝利を阻まれてきた。ブーニョは90年のジロを制しているものの、キャプーチに至ってはグランツールでの勝利を達成することはできなかった。まさに「万年2位」という言葉はキャプーチのためにあるといっても過言ではない。なのに、この2人が我々の記憶に残っているのは何故だろうか?
言うまでもない、センプレ・アタンコ(常に攻撃する)に徹した走りを見せてくれたからである。
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